写真の無限の、あるいは限りない可能性という言葉について思うこと - 「ちょこすな散歩写真」です。

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桑原甲子雄(きねお)さんの言葉

写真をとるというのはなんと無償の行為なのだろう。・・・ わたしのばあい
テーマモチーフストーリーなにもないのだ。

                     (日本カメラ 2014年1月号 P171より)

ぐらり

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写真の無限の、あるいは限りない可能性という言葉について思うこと



写真の無限の、あるいは限りない可能性という言葉を目にすることがあります。
たしかにキャッチコピーとしてはインパクトがありますよね。

でも人間は無限を知覚することは出来ません。
ものを限定することでそれを知ることが出来て、役立てることが出来るのです。

「賞味期限∞」と表記された食品があったら
「おいおい、だいじょうぶかあ?」と食べるのを遠慮したくなります。

無限の広がりにしても
一応「はい、ここまで」と区切りをつけて考えているのです。

写真は科学技術の成果を代表するものの一つです。
それが生み出すカメラは、私の細い目をさらに極細というか点にさせ
「あなた、目はどこ?」と言われそうになるくらい進歩しました。

その進歩の速度は落ちそうになく、終着点は想像できそうにないので
無限と言ってもいいのかもしれません。

でも、それは科学「技術」について言えることです。
写真はアートだとしたら、それは「表現」ですよね。

科学とアートが水と油とまでは言わなくても
やはり、いったんは別のものと考えたほうが混乱しないと思います。

写真の技術的な進歩と写真の表現としての進歩はまったく別だとは思いませんが
いっしょにして語られてしまうのは混乱の元だと思うのです。
そもそも表現には変化という言葉は当てはまるにしても
進歩という言葉は似合わない気もします。


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写真に無限に見える可能性があり何でも出来そうに思えると、
ワクワクして来ますが
時には、写真には何が出来ないのかを考えてみることも必要な気もします。

そして個人個人で言えば
自分は写真で何をやりたいのか、何をやれるのか、
そんなことを考えてみるのも、秋の夜長には悪くはないテーマだと思います。

写真には(現時点では)出来ないことをハッキリさせること・・・
そこからこそ写真という表現は始まるのだと思っています。

そうでなければ
写真の無限の可能性という幻想、あるいは夢想の森の中で
表現としての写真は迷子になってしまいそうです・・・

明日という日は永遠に来ないように、希望はいつまでも叶わないから希望であるように
写真の世界の中で、無限の可能性というものは
写真家に何か新しいことをやっているのだと錯覚させるだけではないでしょうか?





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