「言葉にできるくらいなら写真屋はやっていない」・柳沢信さんの言葉の真意について思う - 「ちょこすな散歩写真」です。

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ゲイリー・ウィノグランドの言葉

あるのは写真だけだよ。
いちど作品が出来上がったあとには、
それを作ったアーティストは無関係だ。

                     (太陽 1989年11月号P108より)                                                                                                                     

こうようきぶんで

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「言葉にできるくらいなら写真屋はやっていない」・柳沢信さんの言葉の真意について思う



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柳沢信さんは大好きな写真家の一人ですが
「言葉にできるくらいなら写真屋はやっていない」と言っています。

それは言葉のことを強烈に意識したからこそ
出てくる発言ではないでしょうか?

写真家とは言葉に頼っているふりをしながら
最終的には言葉を裏切りたい人のことだと思います。
「ものそのもの」を見たいのです。

それは言うほど簡単ではなく、
言葉を自由に操っているつもりがじつは言葉に左右され、
言葉のテリトリーで表現していることが多い気がします。

写真作品にはタイトルなど付けざるを得ないですよね?
作品の選評でよく言われるストーリーだ、ポエムだというのも
言葉の世界のことですよね?


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変なことを言うようですが
世界はある意味、言葉で出来ていると思います。
「それ」を伝えるには言葉を使うのがいちばん簡単だからです。
ゼスチャーやパントマイムでやっていたら日が暮れてしまい、
誰もいなくなってしまうでしょう。

テレビのコマーシャルにしても、文字やセリフがなくて
音楽や映像だけではインパクトに欠け、宣伝効果は激減すると思います。
チャップリンが無声映画からセリフ入りの映画にしたのも
無声では限界があると感じたからだと、何かで読んだ気がします。

われわれはものを見ているのではなく、言葉を見ているのではないでしょうか?
写真で言えば被写体は言葉で出来ているように思えてきます。

そうです。

ほとんどの場合、被写体を撮っているというより
言葉を被写体にかぶせて撮っている気がします。

いい写真はその言葉というベールをはがしているのだと思います。
でも、それは極めて困難なことだとも思うのです。

でも、その困難さが写真家を動かしているのだ、
その困難さと戦うことが面白いから写真家をやっているのだ・・・
柳沢さんはそう言いたかったのではないでしょうか?


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