日本カメラ8月号特集「写真がよく見える トリミングの奥義」はごった煮でした。3 - スナップ・風景・まち・・・そして写真。

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ゲイリー・ウィノグランドの言葉

私にとって写真の特性とは、わずかばかりの現実性
たとえそれがどんなにささいなものであれ、
フィルム上にとらえることなのだ。
そのあとに、もしその現実性が私以外のだれかにとって
何らかの意味を持つことがあればそれはそれでいい

北上中

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日本カメラ8月号特集「写真がよく見える トリミングの奥義」はごった煮でした。3




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60~70年代の写真と言えば「コンポラ写真」で
上野さんはそのころの写真家のそれぞれが「ノートリ」を共通のスタイルみたいにすることで
写真撮影に意味を持たせていたのではないかと解説されています。

上野さんは「スタイル」ではなく「規範」とか「指針」という言葉を使っておられますが
「規範」とか「指針」には「行動や判断の基準になるもの」みたいな意味があります。

それらを基にして「スタイル」、つまり撮影方法やプリントの仕方が
決められていたのだということだと思います。
「規範」や「指針」が原因=考え方で、「スタイル」はその結果=カタチなのです。

つまり「ノートリミング」を前提に撮影に臨むと
フレーミングを決めやすくなるところがあるからだと思います。

上野さんの言うは「ノートリ神話」というは
「撮影したら、あとはノートリミングのままを作品とするのが写真家なのだ
という思い込み」のことなんですね。

ただ、私の勘違いかもしれませんが「コンポラ写真」=「ノートリミング」では
なかったのではないでしょうか?
すべてのコンポラ写真家が「ノートリミング」にこだわっていたという記憶はないのです。
遠い昔のことなので言い切る自信はないのですが
トリミングして発表していた写真家もけっこういたのではないでしょうか。

また、黒枠を付けたのは上野さんの言う「ノートリミングの証(あかし)」ではなく
コントラストの高い写真の場合、周辺の空などが露出オーバーで白トビして
プリントや雑誌などの地の白い色と区別が付かなくなって
間が抜けたようになり、見た感じの締まりがなくなるからだったと思います。

上野さんは「コンポラ写真」と「ノートリミング」を結びつけようとして
そのことを少し強調しすぎているように感じます。

「コンポラ写真」と「ノートリミング」はそれほどつながりはないのではないでしょうか。
「ノートリミング至上主義」の写真家とコンポラ写真家とは別ではないでしょうか。
「コンポラ写真」についてはまたいつか書いてみたいと思います。

続きは次回に。





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