「完璧なフレーミングを!」、「完璧なトリミングを!」で24時間戦うのは疲れませんか? - スナップ・風景・まち・・・そして写真。

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清野賀子さんの言葉

写真の意味があるとすれば、

「通路」みたいなものを作ることができたときだ。

街はもっと美しい

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「完璧なフレーミングを!」、「完璧なトリミングを!」で24時間戦うのは疲れませんか?




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ある被写体、たとえば人気の観光地の「完璧な作品」をある写真家が発表したとします。
そうなったら、それ以後はその観光地の写真を撮ることは無意味になるのでしょうか?
もちろん、そんなことはないですよね。
それ以降もいろんな写真家が作品作りに挑戦し続けるはずです。

写真の場合、タブローと言うのでしょうか、1枚で傑作を!と考えてしまうと、
「完璧さ」みたいなことに必要以上にこだわってしまうような気がします。

「完璧」にこだわり過ぎると写真撮影は疲労に満ちたものになりそうだし
レタッチ(今は現像とも?)は無限に続く果てしない作業になりそうな気がします。

では、アートというものは「完璧」を目指すものでしょうか?
「完璧」というものがないからアートなのではないでしょうか?
アートとは常に「何かの途中」なのだと思います。
発表することはその途中経過の報告をすることではないでしょうか。

「私が撮影したフレーム」をお互いで見せ合うのが写真を発表することだと思います。
「撮影したらこんな写真が撮れました。よろしければ見てください。
感想はおまかせします。」と。

迷いながら撮影し、迷いながら選択し、迷いながら発表する・・・
それが「写真すること」だと思っています。
迷いを見せるのが写真というアートではないでしょうか?

もちろん、何らかの「写真というアートをやっているという確信」みたいなものは
必要でしょうし、自分なりのそれを探すのが写真家だと思います。
ただ、その確信はストレートに見せるものではなく、
作品を陰で支えるものとして必要な存在なのだと思います。

他のアートのことは分かりませんが
写真に関しては欠点だらけの作品のほうが面白い、魅力的ではないかと思う、
私は変なカメ爺さんです・・・





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