写真・「美しい」と「綺麗」との違いにこだわる時代は終わりを告げたのかも 3 - スナップ・風景・まち・・・そして写真。

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清野賀子さんの言葉

写真の意味があるとすれば、

「通路」みたいなものを作ることができたときだ。

街はもっと美しい

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写真・「美しい」と「綺麗」との違いにこだわる時代は終わりを告げたのかも 3



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子供のころ、綺麗な景色を見た時、
理由はよく分からないけれどなんとなく気持ちがよくなってくる、なんだか気分が高揚してくる、
なんとなく胸のあたりがザワザワしてくる・・・そんな感じがしている時、
親が、あるいは大人の誰かが「綺麗な景色だね」と言うのが聞こえます。

それで

今、見ている景色=とてもいい気持=音しては「kirei」=言葉としては「綺麗」

と記憶として定着するのだと思います。

美学的なことはよく分からないし、脳のこともよく分かりません。
美しいものに触れた時、脳が快感を感じその働きとして感動を生んでいるのだと思います。
でも、なぜ脳にそのような作用があるのかはよく分からないのではないでしょうか。

美しいものを見たり、聞いたり、触れたり、味わったりしたら
なぜ人は感動するのかはホントのところ、よく分からないのではないでしょうか。

感動とは辞書的には「深く感じて、心が動かされること」みたいに説明されます。
でも、深く感じるって何?心が動かされるって何?ではないでしょうか?
分かったようで、よく分からない説明のような気がします。

そうではなくて「説明が出来ないよく分からない何かが
自分のどこかで動かされていることを強く感じること」みたいな受け取り方のほうが
感覚的には合っている気がします。

「感じてから(心が)動かされる」のではなく
「まず動きがあって、それからそれを(心が)感じる」のではないでしょうか。

心って何?となるのですが、深く追及すると迷路に入ってしまいそうなので
ここではこのままにしておきたいと思います。

人が感動する時、これは感動するに値するのかなんて計算したりしませんよね。
「さあ、感動するぞ!感動するぞ!」って張り切っている人がいたら
近づくのはやめておきたくなりませんか。

感動した後でいくらでも理由付けは出来ますが
意思とか理性とかのコントロール外のところで、感動はしてしまうものであって、
なぜ感動するのかはホントのところ分からないのではないでしょうか。

感性などといった言葉がありますが、それは言い訳のように思います。
人は理由のわからないものは嫌なので
感動を感性のせいにしているのだと思います。

「これの美しさが分からないやつは感性が鈍いのだ」などと言って
人を差別しているのです。
でも、そういう言い方はあまりセンスがいいとは思えないのですが・・・

記憶はきっかけに過ぎないと思います。
「綺麗な景色だね」と言っている大人たちが
そもそも、なぜ感動しているのか分かっていないのですから。
その花がなぜ美しいのかが分かっていないように・・・

続きます。






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