「アサヒカメラ 9月号」特集のレタッチのし過ぎについて再び考えてみました。 3 - スナップ・風景・まち・・・そして写真。

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清野賀子さんの言葉

写真の意味があるとすれば、

「通路」みたいなものを作ることができたときだ。

街はもっと美しい

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「アサヒカメラ 9月号」特集のレタッチのし過ぎについて再び考えてみました。 3



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レタッチのし過ぎ論争(?)の中心になっているのは次の2つのことだと思います。

①真実と嘘 
②自然と不自然
この2つは同じことの裏表だと思いますがここでは別に考えてみます。

まず①真実と嘘についてです。

真実とよく似た言葉に事実という言葉がありますよね。
どう違うか、写真の場合について簡単な例をあげてみます。

1枚のおいしそうなリンゴの写真があるとします。
でも、このリンゴの中身は残念ながら腐っていました。

何の説明もされずにこの写真を見せられた時、
分かるのはそのリンゴがおいしそうだということだけです。
これが事実です。

でもそのリンゴは腐っていました。
これが真実です。

ちょっと例としては単純過ぎますが、
このように写真はものの表面、つまり事実しか写せないと言っていいと思います。

そして、その写真のリンゴを食べたら見たとおりとてもおいしかったよと
嘘をつくことも出来ます。

写真は真実を語ることも嘘をつくことも出来る、という言い方で分かるように
真実にしろ嘘にしろ、言葉が大きく関与してくるメディア、それが写真です。
写真は独り立ち出来ないのだと思います。

インターネットのフェイクニュースの写真を信じて騙された人は
もう写真は真実を写さないと気が付き始めたのではないでしょうか。

「写真は真実を写す」というのは、ホントのところは
「写真は真実を写すものであってほしい」という願望が言わせている気もします。

篠山(紀信)さんが「写真はマコトとウソを行ったり来たりする」と言っているように
写真はホントでもありウソでもある、落ち着きのないメディアだと思います。

写真は隠れていて目に見えない真実を写せないとしたら
写真がホントかウソかを論じるのは不毛な気がしてきます。

写真はあくまでも3次元の立体の世界で起こる、ある事象の一瞬の姿を
光学的(?)に2次元の平面の像としてとらえたものに過ぎないんですね。

さらに言えば、真実とはひとりひとりがそう思いたいストーリーだとも言えます。
その人の好き嫌い、経験、価値観、環境などから作られた
実体のない物語が真実と呼ばれているものではないでしょうか。

リンゴがおいしそうに撮られて写ってさえいれば
そのリンゴは食べてもおいしいに決まっているのが真実だと思っている人は
中身が腐ったリンゴをおいしそうに写した写真を見てもそう思うのです。

真実というものは一つではなく人の数だけあるような気がします。
だからこそ、レタッチのし過ぎ論争(?)は
終わりのない不毛のものになってしまうのではないでしょうか。

続きます。





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