「アサヒカメラ 9月号」特集のレタッチのし過ぎについて再び考えてみました。 4 - スナップ・風景・まち・・・そして写真。

conv0006_20191010232312a12.jpg


清野賀子さんの言葉

写真の意味があるとすれば、

「通路」みたいなものを作ることができたときだ。

街はもっと美しい

どれか写真をクリックすると「アルバム」のページが開きます。<>で次の写真が見れます。写真をクリックすると大きくなり、もう一度クリックすると元の大きさに戻ります。

「アサヒカメラ 9月号」特集のレタッチのし過ぎについて再び考えてみました。 4



conv0016_20190906111048914.jpg



conv0028_201909061111165fc.jpg



conv0019_20190906111117da0.jpg


それでは次の②自然と不自然について考えてみたいと思います。

自然という言葉を辞書で見るといろいろ解説されていますが
写真表現に限って言えば「人間(写真家)の手が加えられていないこと」とか
「それ(被写体)がそのままであることとか、ありのまままであること」みたいな意味ですよね。

ストリートの人物スナップは相手に気づかれないで撮影することが基本です。
人はカメラを意識すると動作が不自然になるから当然ですね。

いっぽう、人物撮影でも自然なしぐさとか、自然な笑顔とかが大切にされます。
写真家は自然という言葉が好きなのです。

今はスマホカメラをいつも持ち歩くことで、写真を撮ることが日常的になって来たとは言え
改めて写真を撮りますよと言われれば、たいていの人は身を固くするのではないでしょうか。

そのことは表情やしぐさを不自然にしますが、よく考えてみると
カメラを向けられて固くなるのはほとんどの人にとっては自然な反応ではないでしょうか。

それを「自然にふるまって!」なんて言うのはカメラマンの無理な注文だと思います。
プロのモデルさんはどんな時も「自然そうに」ふるまえる人たちなのですね。

ピースサインが定着したのはそうすると笑顔になりリラックスさせるからだと思いますが
街なかを意味なくひとりでピースサインして歩いたら人は避けて通るのではないでしょうか。
ピースサインは写真を撮るという非日常の中で行われるから自然に見えるのです。

そもそもカメラは日常生活のシーンの中では異物です。
カメラやレンズは他人の目なのです。

いまでこそSNSへの投稿のために店内で飲食物を撮ったりしますが
フィルム時代ならそれは異様な光景だったと思います。
時代が不自然な行為を自然な行為に変えたのです。

ところで、言うまでもなくカメラは科学技術の産物であり、進化した人工物です。
筆や絵の具や彫刻刀やシンプルな楽器などとは少し異質な存在です。

そのカメラで撮影した像はある意味不自然な像にならざるを得ません。
人間の目、肉眼の感覚を自然な感覚としたらレンズの目は不自然です。

広角、特に超広角レンズの歪みはすごいです。
カメラ雑誌などの解説ではインパクトがある写真が撮れると書かれていたりします。
不自然さがインパクトと言うのは違う気もするのですが、どうなんでしょう。

逆に望遠、特に超望遠レンズは遠近感が喪失してしまいます。
映画などで主人公が一生懸命こちらに向かって走っているのですが
なかなか近づいてきませんよね。

写真の世界では自然さは神様なのでしょうか?
絶対視し過ぎ、価値を置き過ぎなところはないでしょうか。
もう写真に限って言えば自然さにこだわらなくてもいいのではないでしょうか。

自然風景写真をレタッチのし過ぎで不自然にすることを
「アサヒカメラ」で風景写真家の方が気になるとおっしゃているのはよく分かる気がします。

でも、自分が写した風景写真をどのように扱うかは写真家個人の選択だと思います。
いろいろレタッチした「映えた」写真を見た人が実際の景色がそうだと思い込むことは
まずないのではないでしょうか?

繰り返しになりますが写真を撮るということそのものが不自然な行為であり
そうして撮られた写真が不自然なものであるのは自然なことではないでしょうか。

レタッチの「し過ぎ」という言い方に対して
いろいろレタッチしている人がカチンと来ているのかもしれませんね。

つまり、表現ということに良いか悪いかと言う善悪論みたいになっていることに
異論があるのではないでしょうか?

続きます。




にほんブログ村 写真ブログへ
にほんブログ村へ

↑↑写真のブログランキングに参加しています。                      クリックは記事更新の励みになり、とてもうれしいです。


コメント
非公開コメント