「アサヒカメラ 9月号」特集のレタッチのし過ぎについて再び考えてみました。 5 - スナップ・風景・まち・・・そして写真。

conv0006_20191010232312a12.jpg


清野賀子さんの言葉

写真の意味があるとすれば、

「通路」みたいなものを作ることができたときだ。

街はもっと美しい

どれか写真をクリックすると「アルバム」のページが開きます。<>で次の写真が見れます。写真をクリックすると大きくなり、もう一度クリックすると元の大きさに戻ります。

「アサヒカメラ 9月号」特集のレタッチのし過ぎについて再び考えてみました。 5



conv0030_20190907102617e0c.jpg



conv0028_20190907102613b9e.jpg



conv0016_2019090710254550a.jpg


私の場合は1回目の記事に書いた「1次写真」のほうに興味があります。
「2次写真」に含まれるレタッチ重視の写真、
いわゆる「映えた写真」の中には正直言って違和感を感じる作品があります。
「そこまでやるか~」です。

もちろん、あくまで個人の感想です。
何回も同じことを書きますが、どうするかはその写真家の選択であって
「あなたはそうしたいのですね」と見るほうは受け取ればいいことですから。
正しいとか、間違っているとかは芸術の世界では関係ないと思います。

ただ、レタッチし過ぎかどうかは別にして、レタッチ重視の人に
「絵画、あるいは芸術コンプレックス」みたいなものを感じるのですが
私の勘違いなのでしょうか?

芸術という言葉から連想されるように
アートには技とか手作業みたいなものが付きもののイメージがあります。
アーティストの手の加えられた痕跡みたいなものが作品にはあるからです。

ところが写真はその写真家の痕跡を残すのが極めて難しいアートなのです。
フィルム時代は少しでもそれが出来たと思いますが
デジタルは電気信号(?)なので直接手作業が出来ません。

確かに、レタッチソフトでいろいろな加工は出来るので
時間をかけるほど手作業しているように錯覚してしまいやすいのだと思います。

デジタルのことは詳しくないので間違った説明になるかもしれませんが
Aという画像ソフトを使ったBというレタッチ作業は誰がやっても同じ結果になり、
他のアートのようには、その写真家独自の痕跡は残せないのではないでしょうか?

仮にBという作業が複雑な行程だとしても
そのやり方を理解し、Aという画像ソフトを使いこなせる他の写真家がいたなら
特定の写真家しか出来ない作品作りは不可能になる気がします。
あとは先にやった写真家のやり方を他の写真家がやるかどうかです。

この間、テレビの「情熱大陸」で映像作家(?)の人が出ていましたが
その画像処理作業の場面を撮ることは遠慮してくださいと言っていました。

それはやり方を知られたくないからですよね?
画家が描いているところを撮らないでくれと言うとしたら
気が散るからとか、集中したいからとかいった別の理由からだと思います。

また、その写真家独特の眼差しみたいなものはあると思いますが
それはレタッチ作業とは別のことだと思います。

レタッチ作業に「美意識」とか「絵ごころ」を結びつける写真家もいるようですが
レタッチは慣れとかコツのようなものではないでしょうか?

記事を読んでいないので詳しいことは分からないのですが
「アサヒカメラ 9月号」はレタッチのし過ぎについて、
よくないという意見だけ取り上げたために、それがネット上の論争(?)になったようです。

じつは以前の「アサヒカメラ」は
「映えた写真」が中心の日本最大の写真投稿サイトとコラボ(?)していましたよね?

編集長が変わってスタンスが変わったのかもしれませんが
両方の意見を取り上げて、あとは読者がそれぞれ自分で考えれるような記事にしたほうが
よかったのではないでしょうか。

問題提起のつもりかもしれませんが、今回の記事のような内容だと
やっぱり「アサヒカメラ」はおじさんたちのカメラ雑誌だと思われ、
若い人たちからはますます距離を置かれることになる気がします。

最後にエラソーなこと言って、すみません。




にほんブログ村 写真ブログへ
にほんブログ村へ

↑↑写真のブログランキングに参加しています。                      クリックは記事更新の励みになり、とてもうれしいです。


コメント
非公開コメント